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本願寺月刊誌『大乗』で紹介

浄光寺永代経(善太郎の法要併修)期間中(5月5日~9日)西本願寺出版社より取材を受け、善太郎さんや師匠寺としての浄光寺永代経の法座風景や浄光寺の活動などが、月刊誌「大乗」に大々的に掲載されました。その全文を紹介します。 

日本百名湯に選ばれた小さな湯の町「有福温泉」

 〝中国太郎″との異名をもつ江の川。その河口に開けた島根県江津市は、かつて北前船の寄港地として栄え、日本海側の海運・交通の要だったところ。
  めざす有福温泉は市街地から車で約20分。緑まぶしい山の景色を楽しみながら、くねくねとカーブする道を辿る。
  山の斜面をさながら雛壇のように並ぶ宿。鳥の声、せせらぎの音。日頃の喧騒とはかけ離れた静けさの中、細い石段を行き交う泊り客の下駄の音だけがカラコロと響く。
  こじんまりと、どこか懐かしさの漂う小さな湯の町。
  新緑の今はもちろんだが、紅葉の季節や雪化粧の頃も格別の趣があるにちがいない。肝心の湯は、温泉博士として名高い松田忠徳氏の「日本百名湯」にも選ばれたほど。千参百年もの間、絹にたとえられる名湯がこんこんと湧き出でているのである。
  福ありの里。なんとも好ましい名前のこの地に、妙好人・有福の善太郎は生まれた。
  若い頃は気性が激しく、酒や博打に明け暮れて″毛虫の悪太郎″と村人から嫌われたという。しかし結婚後、次々と4人の子どもに先立たれて以来、聴聞に励み、念仏一筋に生き抜いた。
  「人間は人間らしくして暮らせ 親はおやらしゅうに この善太郎」 「うれしくば 南無阿弥陀仏をとのふべしうれしくなくば なおとのふべし この善太郎」といった法悦の詩を数多く残したことで知られている。

喜び悲しみを「この善太郎」として味わう

  善太郎の手次寺、浄光寺では、毎年5月5日~9日の永代経法要に併せて善太郎の法要が営まれている。
  「善太郎さんの心が、今日の私たちにもつながって大勢の方にご縁を喜んでいただける。ありがたいことですね」と語る能美紹隆住職の案内で、同寺の展示室に遣る善太郎ゆかりの品々を見せていただいた。式章をかけた肖像画や文箱、そして善太郎が書いた詩や御文章・御和讃の写し……。
  おおらかでたくましい善太郎の字。「さ」「し」「ご」「く」 「じゅう」を数字の 「三」「四」「五」「九」「十」と表すなど、独特の符丁が使われていて、読み解くのは難しい。しかし農家に生まれ、学校もない時代にこれだけの言葉を書き残した熱意に心を打たれる。
  文章の最初や最後に「この善太郎」と記されているのも印象的。お聴聞した親鸞聖人や蓮如上人の教えを自らの血肉としたのだろう。喜び、苦しみを″この善太郎″としてかみしめ、味わっていたことがひしひしと伝わってくる。
  法要の期間中、毎日80~150人もの人びとが集い、善太郎を偲ぶ。午前と午後の法要の間には、仏教婦人会の手による真心のこもったお斎の接待も。
  「子どもたちに伝えていくため、折に触れ、善太郎さんの人形劇などをしているんです。この辺りでは善太郎さんを知らない人はいないくらい、皆から親しまれています」と仏婦メンバー。
  江戸時代末期、仏法に照らされながら暮らした善太郎の心が、この地では脈々と生き続けている。往復900キロもある京都の本山へ、生涯で9回も参拝した善太郎に負けじと、同寺では念仏奉仕団を結成し、御正忌報恩講にも団体参拝を続けているそうだ。

石見の土徳が生む 妙好人

  因幡の源左、温泉津の才市……山陰地方には後に妙好人と言われ、時代を超えて親しまれてきた人が多い。とくに石見地方は、妙好人だけでなく、和上として尊敬を集めた僧侶も数多く輩出している。中央から遠く離れ、決して豊かとはいえない厳しい環境の地であるにもかかわらず……。
  「石見の人は、素直で疑いの心を持たないと褒めていただくことがありますね。そんな人間性と熱心な先輩住職たちの努力が実を結んでいるのでしょう。土地の緑、つまり土徳なのだと思いますよ」としみじみと語る能美住職。
 
月刊「大乗」6月号に掲載(2004年5月7日・8日取材)
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