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善太郎さんの生涯

天明二年(1782)~安政三年(1856)

第一第二第三の 善太郎いでよ 寺涼し  丹詠

善太郎さんの生きていた時代

天明の大飢饉の始まった年に生まれ、青壮年期は爛熟した町人文化が花開いた化政文化の時代であったが、一方では、外来船の来航で政治不安の芽生えた時期でもあった。晩年は、天保の大飢饉と開国にともなう尊皇攘夷論の高まりで国内が騒然とした時代であった。こうした経済的危機、世情不安の中で何度も本山参りしたことは、篤い信仰心がなければできないことであった。

善太郎の幼少時代

善太郎は父徳太郎、母キヨの長男として、代々浄光寺の世話人を勤める下有福村の農家「原土居家」に生まれた。
五歳のとき、母と死別したほか祖父母や義母、妹にも早く死に別れ、淋しい少年期を送った。
しかし、ここ石見の地にはかってないほど浄土真宗のご法義繁盛のきざしがあった。

青壮年期-結婚・愛児との別れ

二十代でトヨと結婚し、子供にも恵まれたが、四人の子供は幼くして次々と先立っていった。毛虫の悪太郎と嫌われ、、誰からも相手にされない善太郎は、どうしようもない悲嘆のふちに立たされた。
そして、四十代にして初めて、如来様の前に手を合わせたのである。

聞法の時代

襲い来る自然災害や疫病の流行で、厳しい社会情勢が続く中、善太郎は熱心に法を求め聴聞を重ねた。そして苦しい生活の中で、四年もの歳月をかけて建立された浄光寺の本堂が完成したのは、天保の大飢饉の年である。落慶法要の折、善太郎は本堂の柱に抱きついて嬉し涙を流したといわれている。

九回の本願寺参り

善太郎は生涯に九回も本願寺に参っている。
当時は町民が力をつけ、信仰巡礼の旅が流行っていたが、一介の百姓である善太郎の立場と、石見の地からの交通事情を鑑みると、その情熱には驚嘆すべきものがある。
最後の旅の帰路、旭町和田本郷で病にかかり、翌年75歳のとき、お浄土に帰っていった。黒船来航で開国を迫られ、日本の歴史も大きな転換期であった。
 
※浄光寺の展示室には、時代背景を年表で紹介しています。
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